宮内悠介『エクソダス症候群』感想

[小説][SF][ミステリー]『エクソダス症候群』宮内悠介 著 創元日本SF叢書 東京創元社
エクソダス症候群 (創元日本SF叢書) (創元日本SF叢書)

未だ開拓途上の火星。物資が不足し地球と同水準の生活は維持できない。
人々は馬車を主な交通機関とし、代替コーヒーを飲んで暮らしている。
その火星でただ一つしかない精神病院ゾネンシュタイン。
薬も乏しく、地球ではすでに薬によって克服されているエクソダス症候群の患者も多い。
そのゾネンシュタインへ地球から若き精神科医カズキ・クロネンバーグは赴任してくるところからこの物語ははじまる。
精神科医でかつてゾネンシュタインに勤務していたカズキの父は、ある秘密を抱えたまま幼いカズキを連れて地球へ移住した。
成長したカズキは、地球に蔓延する新たな病・突発性希死念慮よって恋人を失ったことを契機に地球を離れ、故郷である火星で父の抱えていた秘密と己の自身の秘密に向き合うことになる。



待ちに待った(そう、ずっと待っていたのだよ)宮内悠介の初長篇がついにきました。
あれだけ待たせたのだから内容が以前予告されていたものから変わってもおかしくないと思いましたが、そこは変更なく火星の精神病院のお話。
未来の火星、今現在の我々より未来だけど物資に乏しい火星では地球ほどには進んだ医療行為はできない、ということで火星というオルタナティブを使って最先端医療から一旦距離をおいた視線による精神医療史を描いていきます。
それをメインテーマとして面白く書けるのが宮内悠介のすごいところ。
それこそ矢吹駆シリーズや京極堂シリーズ級の面白さ。
ただある意味もっとすごいのは、矢吹駆や京極堂がいないそれぞれのシリーズな感じなところで、普通の人ががんばって事件に挑む。
物語的というか設定的にはめちゃくちゃ作為的な人物たちが登場するのだけれど、それでも彼らには(へんな言葉ですが)架空の実在の人物といった趣がある。
己の生い立ちやら経歴やら置かれた状況の異常さ(もしくは素晴らしさ)にほとんど頓着しない。
淡々とできることをやる。
その部分が作中の緊迫した状況と奇妙なもつれをみせてちょっと変わったユーモア(押井守のある種の作品のような)と、ドラマ部分の心情的説得力を形作っています。
楽しく読めた傑作でした。


宮内作品の特徴として、実在の人物やエピソードを鋭い嗅覚で小説に引っ張ってくる部分がありますが、そういうことを可能にする膨大な参考文献を読んでいるときに感じたかもしれない読み心地のようなものを、この作品には落とし込んでいるような気がします。
この小説で描かれた事件の資料を読んでいる未来の宮内悠介からのメッセージのようだ、といいますか。
そして個人的には(というか今までも個人的な感想しか書いていませんが)、この事件を題材に宮内悠介にもっと小説を書いて欲しい、と思っているので、病院内から一歩も出ない安楽椅子探偵で真夜中に名推理をするノブヤや、賞金稼ぎアイドル・カラミティ・ジェーンとおっかけ医師シロウのお話を連作短篇とかで読んでみたいです。
そうやって書き継がれていくことで、この馬車が走っているのにコンピュータがあってネットがあって仮想空間があるスチームパンク的な赤い星が、われわれ読者の心の故郷に本当になっていくのだと思います。